最後のフィリピーナ

yo-en2018-10-17

「 オフェリア」
 日本に出稼ぎの、うちのBarに住み込みで居た、最後のフィリピーナ。

 追憶。16歳、いつものように夜更かししたある晩のこと。
 「ママがぁ、ママがぁ」と大粒の涙を流して、階下で泣き叫ぶオフェリアの声がして階段を降りると、四つん這いになったオフェリアに掴みかかろうとする我が母を見た。
 売上に無理して飲む酒に、酔いつぶれて焦点の定まらない母の虚ろな表情がネジくれている。
 酔って父に掴みかかる事は数回見たことあるが、こんなのは初めて見た。慌てて父が降りて来ると、オフェリアは父の腰に手を回し「パパァ、パパァぁああ」としがみついた。
 私は状況がつかめず立ち尽くすだけだったが、父の腰にしがみつく女を目の前で見させられ、その瞬間だけオフェリアに嫌悪を感じた。

 母は更に猛り狂い掴みかかろうとするが、足元は頼りなく、我武者羅に振り上げた弱々しい拳は、オフェリアの腰の辺りをかすっただけだった。
 するとオフェリアは更に甲高い声をあげて「痛ぁぁぁいぃぃ、パパァぁぁ助けてぇぇ」と父に手を差し伸べ、慌てて父も手を伸ばしオフェリアの腰を確りと掴み上げた。
 その時の私が直視したのは薄地のドレスから伝わる肉のヒダに食い込んだ父の指先だけだった。そして次に母の形相。

 なおも掴みかかる母。オフェリアにしがみつかれ思うように静止できなかった父はイライラして、状況もわからず一方的に、母に強烈なビンタをしたので、ヨダレを撒き散らしながら母は倒れた。
 顔を上げると鼻からは血がタラタラ流れ、まるで心臓をナイフで突かれたようだった。

 その場面はそれ以上思い出せない。
 ただあゝ優しく微笑むオフェリアは美しかった。健康そうな小麦色のしっとりした肌、知的そうな張りのある額や頰には艶があり、幅広の二重瞼に青いアイシャドウが神秘的だ。ふっくらした締まりのいい口元に朱色の口紅がよく似合い、黒い髪、黒い瞳のオフェリアは歴代のフィリピーナには無い気品があった。

 そしてオフェリアは、うちに来た最後のフィリピーナだったと思う。なぜ今にして思い出したのか、強烈なエピソードを置き土産にして帰ったフィリピーナはまだいるというのに。お陰で沈んだ1日だった。
 胸が詰まるのは母のこと。母がぶたれた時、駆け寄って守ってあげなかった。なぜなら私の手はオフェリアの肩にかかっていたのだ。酔った母の事だから忘れていてほしい。
 父は思い出すことがあるのだろうか。
 そんな事はあまりに多すぎたあの時代だが。